武蔵野市議会「外国籍住民の住民投票条例案」否決に思う事。

民主主義の根幹である「投票」。この投票に参加をする権利を「外国籍」の人に一般住民と同等に付与するか否かが問われた。
自身は10年を越えて、New Yorkに在住していたこともあり、ちょうど「逆」の立場であったので、どういう判断が下されるのか注視していた。

それと同時に、今回のこの法案が出されたことに少し「違和感」を覚えていたのも事実である。

昨今の社会の風潮で、ジェンダーレスや多様性など、様々な立場の人達を受け入れようという流れがある。
この機運は基本的に良いことだと思っている。
しかしだ、この日本においては、これもまたすこし「違和感」がある。
その違和感というのは、日本はこう言った言葉や流れに対して「流行」で流されているように感じて居るからだ。

「多様性」って一体どう言う意味か、それは「幅広く性質の異なる群が存在すること」と定義されている。
流行言葉だけで「多様性」をうたいながらも、例えば「喫煙」に関しては、非常に目くじらを立てる。
喫煙者も、禁煙者も「多様性」のひとつだと思うのだが、そうはならない。
言い換えると「それとこれとは別」。そうなのだろうか?

ある種、そういった偏った「多様性」は、本来の「多様性」とは異なると思う。

New Yorkは、それこそ「多様性」に富んだ街である、そして、それぞれが、認めあい、理解し合い、その上で「普通」なのだ。
在住時には回りに「同性愛者」の知り合い老いれば、「トランスジェンダー」の人もいた。でも、それは特別なことではなく「普通」で、だからどうだと言う事ではなく、一人の人間として接し、それ以上でもなくそれ以下でもなかった。

しかし、日本では、まだまだ「普通」という感覚はない。社会がまだ熟し切っていないわけだ。

そういった経験をしてきた上で、今回の「外国籍の投票権」に思うのは、日本に在住し、どうしても「投票権」を必要と思うのであれば「日本に帰化」し「日本国籍を取得」を最低条件にすればいいのではないだろうか。
国籍を取得し、税金を納め、日本のルールの下で、永続的に生活を送る。その覚悟を持てるのであれば「選挙権」を付与しても良いとは思う。

しかし、数ヶ月、数年、日本に住んで居るからで、様々な方針を決定づけることになる「選挙権」は厳しいだろう。
選挙における1票は、投票すれば良いだけの1票では決して無い。投票をした限りは責任を持つ必要があり、その政治家の政党の行く末、行動をちゃんと監視する義務があると思うからだ。

それを、投票の時に住んでいたから1票を投じ、その数ヶ月後には「母国へ帰国」では、その1票の意味、効力が全く無くなるからだ。

我々日本人は、いや、少なくとも自分は、海外に行った際に、最初の挨拶「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「すみません」位は最低でもその国の言葉で話を始める。
それは、その国にお邪魔をしている身として、最低限の礼儀だと思っているからだ。英語圏であれば、可能な限り英語でコミュニケーションを取る。
しかし、日本に来る外国人(英語圏)は、平気で「Excuse Me」と声をかけてくる。
自分は、そういう外国人に対して「少なくともここは日本だ。お前の国ではない。であれば、少なくとも『Excuse Me』ではなく『すみません』から会話を始めるべきなのではないか。」とハッキリとクレームする。

「郷においては郷に従え」である。

外国籍の人間の犯罪も問題である。犯罪を起こすのは国籍ではなく、あくまでも「個人」ではあるが、日本の文化・風習を無視し、簡単なルールすら守れない外国人(多くは観光客ではあるが)の多いこと。

元々育った環境や風習が異なるのは理解する。しかし、日本に住んで居るのであれば、そこはアップデートをしなければならないポイントである。

それらを、それぞれの外国籍のコミュニティーでちゃんとコントロールし、自分達の「居場所」をちゃんと築き上げる事が出来れば、地域のコミュニティーにちゃんと受け入れてもらえることが出来るはずだ。
その上で「帰化」と言う選択を出来るかどうかなのではないだろうか。

「外国籍で他国で生活するのは決して楽な事ではない」これは身を持って経験してきたからこそ良く理解している。でも、そこにちゃんと根を張ることも可能である。
「選挙権」というのは、その上での話しではないだろうか。

旗振りをしている武蔵野市の市長は、おそらく海外での生活経験はないであろう。言葉だけの「多様性」で「選挙権」という責任ある権利のばらまきは熟考すべき事案である。